「聲の形」に触れて
映画を観て衝撃を受け、帰宅早々Kindleで原作を全巻買い、そして読み終わった。鮮明なうちに、感想を記したいと思う。
以前から、すごい作品だとは聞いていたから、映画は早めに観に行こうと思っていた。そうしたら公開日に舞台挨拶LV付きの回があって、そしてギリギリ席が取れそうだった、ので、取った。
9/17、昼過ぎの回を観た。
前の週に、噂の「君の名は。」を観たが、あれは、言わばファンタジーだった。
しかし、「聲の形」は、言わば現実だった。
端的には、どのキャラクターも好きになれないと思った。あまりに各人が、生々しくも人間で、人間らしく”良い性格”をしていた。
特に川井が嫌いだった。
八方美人で自分の意思が無いか、あっても周りに合わせるだけ。自分の意思が無くて決められないからって判断を人に押し付けて、「それに付いて行く」のが自分の意思だと思い込んでいる。自分の判断で前に進んだ時の責任は自分だけど、他人の判断なら、そうでは無いからね。そうやって自分を守るのは、自分が可愛いからだ。
・・・嫌いなところがよく分かる。まるで自分を見ているようだ。
前評判や、映画を見てから聞いた話で、色々な人が、「キャラクターを好きになれない」と言っていた。きっと、聲の形に出てくるキャラクターの”リアルな人間の持つ嫌な部分”のうちのどれか1つくらいは、読者・視聴者自身の内面にも存在しているんだろう。だから、誰もが無意識に同族嫌悪するんじゃなかろうか。
この作品は、聾唖者を題材にいじめ問題を扱っている。
しかし、作品全体から感じたのは、あくまで聾唖やいじめは一例に過ぎないということだ。
たぶん人それぞれ、何かしら欠点はあるし、自身気にしていたり、人に指摘されたり、場合によってはからかわれたりするだろう。
決して障害というものを軽く見ているわけではない、と前置きさせて欲しいが、この作品の中では、「耳が聴こえない」ということは、そういった人の生来の欠点の象徴でしか無いのだと思った。
石田が興味本位で西宮をいじめたこと、植野が西宮にイラついたり口が悪くて佐原を不登校にさせたこと、佐原が不登校になったこと、川井が自分のことしか考えていないこと、、、そういう、各人が持っている欠点と、西宮の聾唖は、作品中では違いなく思えた。本人が直そうと思っても直せないのなら、もしくはそれに気づきすらしないのなら、生来の障害と何ら変わらないのではないか。だから、いじめの一件が露見したあと石田はいじめられた。西宮の聾唖と、石田の一連の行為は、等しく、いじめられる原因たるものだったというわけだ。
しかし、この作品は一方で、石田をはじめ、それぞれが自分の弱さに立ち向かって前に進もうともがいている。特に顕著なのは佐原だ。小学生時代に最初に逃げてしまったとは言え、自分の弱さを自覚して、前に進もうとしている姿が眩しい。植野も、過去を振り返って、自身の考えを西宮本人に(ずけずけと)言ったりしながらも、西宮を受け入れようという意思は感じられた。結局「嫌いだ」というのは変わらなかったけれど、それは仕方ないようにも思う。西宮も、自分の置かれた(障害も含めた)状況に、諦めるんではなくて、もがきだした。
そういった個々人の成長、もしくは成長の兆しが、この作品の救いに思える。現に、石田の周り人間関係は、学祭のシーンの時点で大円団を迎えた。
・・・しかし、ね。
川井は最後まで、「自分可愛い」から何も変わらなかった。
川井が西宮に、「自分を可愛いと思うくらい好きになって」と励ますシーンなんて、最悪だ。あんなのは自分自身に対して言っているだけで、西宮なんて「そんなこと言える自分可愛い!」の道具でしか無い。一見感動のシーンだったけど、偽善の塊を見せつけられて、気分が悪かった。
先に述べたように、おそらく、自分自身をこの作品の登場人物に投影するなら、間違いなく川井だ。その川井が、作品内で成長の兆しを見せなかったことは、残念だった。
べつに悪口を書きたいわけじゃない。この作品はすごいと思ったし、こんなに嫌いなキャラクターがいるということは、それだけ自分に響いた作品だったということだ。概して好きな所を言うことより、嫌いな所を言う方が簡単だ。ただそれだけのことだと思う。
さて、色々言ってきたけれど、また何かおもいだしたら書きます。
原作を読んで、やはりまたもう一度、映画を見なおしたいと思った。
だから、何か新たに思うことがあれば、また追記するつもり。
以上。